セルフヘルプ・グループ「アロー」


☆☆セルフヘルプ・グループ「アロー」 メンバーの声4☆☆

「アロー」Allow

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2015/3/27


 2015年3月、「嗜癖関係の自助グループと関係者の交流会」にて
 グループ「アロー」を代表して発表したFさんより
 当日の発表内容です。

こんにちは。
私は、AC自助グループ「アロー」のh-aです。
家族が家族として機能していない家庭で育った、アダルトチルドレンです。
過去には、共依存傾向もとても強かったように思います。
共依存症というのは、人との関係に囚われている症状です。相手は相手、自分は自分。という考えができませんでした。
自分が望むようにありがたがられないと、「こんなに私が頑張ってるのに・・・」「言うことをきいているのに・・・」という思いがふくれ疲れてしまい、しまいには「こんな役に立たない私は、いなくてもいい。生きている価値がない」という思いになってゆきます。

思えば、物心がついた頃から漠然と「死にたい」というおもいがありました。
30歳前後の頃だったと思います。
職場で意地悪な同僚がいて、暴力を含めた嫌がらせを受けていました。
家へ帰ると、夫は何か不機嫌で、イライラをぶつけてきます。
日頃から何かと問題行動の多い父が入院し、面倒を見なきゃいけないと母や親戚が愚痴ばかりこぼし私を頼ってきます。
その頃は、毎日毎日「生きていたくない。いいことなんて何もない。死にたい」と思っていました。
私はこの思いを今は『死にたい病』と名付けているのですが・・・
当時この「死にたい病」が出てきたらそれを打ち消す心の声が「親より早く死んだらダメや!お母さんが悲しむ」でした。
しかし、いよいよどうしようもなく「死にたい」症状に駆られ、自問自答しました。「本当に私が死んだらお母さんは悲しむのか?」
ここからが、私が自分の過去起ったことに向き合う始まりでした。

私の育った家族は、いつも喧嘩が絶えませんでした。
父の話をすると長くなるので、ここでは止めておきますが、とにかく親戚や地域の人たちから奇異の目で見られるような、問題の多い人でした。
食事の時間は、その父を何とか世間から変に思われないようにしようと、母の小言が始まり、次第に汚い言葉で大声の罵り合いになります。そのうち、言葉で負けてしまう父が母にお茶碗を投げたり、暴力を振るいます。
暴力を振るわれた母は、腫れて怒った顔をして泣きながら、私に命令します。「おじちゃん、呼んできて!」と・・・
おじちゃんとは、父のお兄さんで、歩いて10分位の近所に住んでいました。
今でも覚えています。夜中、真っ暗の中、泣きじゃくり歩いて伯父の家へ向かいます。
寝ている伯父に「おじちゃん、来て〜、お父さんとお母さんがまた、喧嘩しとる〜」と呼びに行きます。
すると伯父が起きてきて、「おまえのお父さんもお母さんもどうすることもできん奴らやなぁ」と、とても面倒臭そうに、私に文句を言いながら、一緒に家へ向かいます。
そして、伯父は「こんなどうしようもない男は叩いて分からせるしかない」と言って父を殴ります。これで、喧嘩は終わります。
母が泣きわめく姿を見るのも、父が殴られるのを見るのも、伯父が殴る姿を見るのも、とても怖かったです。
以前勤めていた会社は、ノルマなどある会社で、会議の席とかでは、大きな声で議論したり、上司が部下を叱咤することがありました。
私は会議中が苦痛で、胸やお腹のあたりがキュウゥっと締め付けられるような感覚になり、息苦しく、何も考えられない状態に陥りました。苦しかったなぁ・・・
今、思えば、ACの後遺症がこんな所にも出ていたんだなと思います。

母は台所でご飯の支度をしながら、「あんたらがおらなんだら、とっくにこんなとこ出て行くわ」「あんたらさえおらんかったら・・・」と、自分の置かれた境遇の不幸を恨み、父の親戚や縁者の悪口や自分の苦労話を私に聞かせました。
たぶん、生活の疲れからであろうけれど「運んだ水をこぼした」「やれと言ったことをしてない」「家事仕事が増える」と言ってヒステリックに私を怒ります。執拗に責め立てます。
怖かったです。でも、私が悪い子だから良い子にするために・・・私のために・・・母は厳しく怒るのだと思ってました。
当時、母の他人に媚びるような笑みは見たことがありますが、笑顔を見た記憶がありません。
学校の話や自分の話を母に聞いてもらった記憶がありません。
私さえ居なかったら、母は自由に好きな人生を歩めたのに・・・私は居てはいけないんかな?こんなに苦労をしている母に迷惑をかけてはいけないと、思っていたようです。
そんなこんなで、漠然とした「死にたい病」が心に住み着いて、母のために頑張って生きなければ・・・と、ギリギリのところで踏ん張っていたのかもしれません。

ACの後遺症を自覚してからも苦しかったです。
今まで蓋をしていた嫌な記憶がどんどん、どんどん出てきます。
今まで以上に「私なんていないほうがいい」という思いが出てきました。
ACのことを書いた本には「自助グループに参加しましょう」と書いてありましたが、当時、私が探した限り石川県に自助グループはありませんでした。
過去に囚われながら、現実生活でも悩みを抱え、苦しかったです。
そんなとき、一人の友人が、「私はアダルトチルドレンなの」とカミングアウトしてくれました。
家庭環境は違うけれど、同じように家族の問題で心に深い傷を持つ人から初めて話を聞き、私も少しずつ話せるようになってきました。
「死にたい病」が出てきた時も、その友人には話せました。
次第に、毎日「死にたい」から週に1回、ひと月に1回、半年に1回とその思いが薄くなっていきました。
今でも年に1,2回はありますが、「これくらいは誰もがあるのかなぁ・・・」と、楽観しています。
自分は自分。死にたいと思ってもいいし、嫌なことはイヤと言っていいし、ダメなことなんてないな。と思えるようになりました。
そして、今は自助グループに集まる仲間もいます。

グループが発足されて5年目になりますが、グループ「アロー」では、とにかく楽にいられることを一番に考えています。
一番休めるはずの家庭で、常に緊張し、びくびく怯えて生活してきたわけですから、安心できることを一番に考えています。
何回来なければいけないとか、話す順番とか決まりごとは一切ありません。
毎週水曜日にやってます。
参加者はそれぞれ家庭環境も全く違うし、表面に出ている症状も違うけれど、弱みを見せてもいい、と思える人に、話したり聴いたりすることで、満たされなかった自分の中の子どもの部分を振り返りながら向き合う時間になっています。

今日は、話を聞いてくれて、ありがとうございました。

  
以下、発表後のFさんの感想です

発表前から、ワァァーーどうしよう(^^;)大勢の前で本当に話さなきゃいけないのかな・・・と不安がつのりました。
でも、昨年、一昨年のk-kさんとiさんの取り組んでいた姿を思い出し、それが励みとなりました。
何を話そうか・・・と草案中には10分では足りないと思うくらいどんどん過去のいやな出来事が湧き出てきます。原稿を仕上げ、ひとりリハーサルと思い声を出して読み上げてみました。すると、胸が詰まり、涙が込み上げ、言葉が詰まってきます。
あーーーぁ、もう、過去のことだから・・・許していたはずなのに、今でも、自分のことを話すことがこんなに苦しいんだなぁと再度、実感しました。
当日は、マイクを持つ手がどんどん震えてきている自分を体感していました。
今は、スーっと、晴れやかな気持ちでいます。
自分のできることプラス少しのチャレンジ。
誰が見捨てようとも、へこたれようとも、私だけは自分の身体と心を大切に思い一生付き合っていこうと思っています。
交流会が終了し、
お別れする時、NAの方から握手を求められ、互いに言葉は交わさずとも、真っ直ぐ目を見て握手したこと、忘れられません。うれしかったです。ありがとうございました。
                                 
2015年 3月  Fさんより 

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